namtoknaam’s blog

社会的実践家の仏教説法家スパワン師の本を読み解いていきます

その15-ブッダの一握りの木の葉 ―ブッダの核となる教えとは

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スパワン師の原著

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第三章 涅槃はどこにあるのか

子供の頃、私は、涅槃というのは天女と神々で満ちた美しい天国を想像したところで、私達のような一般の人が行き着けないところであるという言葉を聞きました。何故なら、あまりにも遠く、ブッダや非常に経験を積んだ長老僧のみが行けると聞いていたのです。
 多くの仏教徒がそのように考えたのだと、私は信じています。スワンモック寺院のプッタート師の教えに出会ったとき、私は、涅槃を「清涼なる冷たいもの」と解釈しました。その当時、私は20才で、タマサート大学の学生で、1973年10月14日の事件(シップシー・トラー:学生によるクーデター事件もしくは血の日曜日事件)を経験したばかりで、心はみずみずしく沸騰していて、誰もが人生の真実の意味を知りたいのではという疑問に満ちていました。
すごく知りたかったのは、人生の目的は何かということでした。何故、良き人物がまた、若者や若い女性が、自分の国に対して希望を持っていたにもかかわらず、銃撃されて死んでいったのか、人生の価値はどこにあるのか、それをどのように量ったらいいのかということでした。
とりわけ知りたかったのは、何が最高の真理かということでした。スワンモック寺院とプッタート師の出会いによって、私は真理に近づくための1つの道を知りました。しかし、このことについては、実は何事も明確に理解できていませんでした。1976年10月6日クーデターの過程で発生したタンマサート大学虐殺事件(血の水曜日事件)によって、友や同士が命を奪われる、あるいはそうでなければ、彼れが森に逃げ込むようなことまで起きたのでした。すなわち、その時代の政治動乱による「苦」と自分自身の人生で遭遇した固有の問題が同時に起こり、私は、両方の問題に耐えて瞑想にのめり込みました。まるで、その当時、瞑想以外のことはできなかったかのように。

その14-ブッダの一握りの木の葉 ―ブッダの核となる教えとは

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スパワン師の原著

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もしブッダの発見した真理を理解しなかったら、私達は、たとえ世界中の学位を取ったとしても、真理の何も理解する日はないでしょう。何故なら、世界のあらゆる事を知ることは、いくら素晴らしくても、すべては人生の牢獄の壁の中で生じた知識だからです。一方、ブッダの仏教、特に四念処、すなわち、ヴィパッサナー瞑想を知ることは、私は心を本来の「家」に帰すと新しく命名したいのですが、他の誰もが唱えたものと異なる、他の誰も唱えたことのないことを知ることです。それは、第一級の涅槃に人を誘う直接の道で、最高の真理なのです。人が「ベンガル虎」の状態から自由になれることを助け、真の自由に達することができる道なのです。

その13-ブッダの一握りの木の葉 ―ブッダの核となる教えとは

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スパワン師の原著

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もし、ブッダが説法を行う決断をした大きな慈悲がなければ、輪廻の中に彷徨う私達の人生は、さらに何十万年も暗闇の中にいたに違いありません。それを考えると大変恐ろしいです。何故なら、今後、あまりに長く耐えねばならないからです。タイ人は、自分が人間として生まれたこそ可能な仏道修行を行い、ブッダに出会いなさい、そうでなければ生まれ損だと説法する僧の言葉に耳を傾けますが、困惑して理解しない傾向があると言われています。ここには深い真実があります。しかし、多くの人々は、どうしてそのようにするのがいいのか理解しないし、関心もありません。
真理に至るにはどうしたらいいのでしょうか。八正道では、「正しく理解すること(正見」から始めます。ブッダが発見したひとつの事(それは私達がまだ知らず、見ていないことですが)を見て、理解する必要があるということです。いかに歩んで求める場所に至るべきかを説くブッダの言葉を聞く必要があるのです。ブッダが発見した内容を理解しない場合は、話は終わってしまいます。理解して信じないのは、最初から「虎」として呪われているようなものです。信じないのは、ずっと「虎」であることを喜ぶことです。賢い人は聞いたら、すぐに理解しようと求めるでしょう。真に求める場所に至りたい人は、四念処に関心を持つ必要があります。私は、皆さんの心が本来の「家」に帰れるように、理解できる言葉でやさしく説明するつもりです。この「家」こそが、涅槃であり、各人の「人」本来の「家」で、「虎」から「人」になることなのです。
賢い人は、読んだだけで、人として生まれ、仏教に出会ったことを幸運を、すぐに理解するでしょう。安らぎを感じず、自分自身は人生に問題がない故に、仏教を学ぶ必要がないと思う人は、哀れむべき、可哀想な人たちです。ブッダは、この世を生まれて死ぬことを繰り返すことを輪廻と呼びました。生死を何度も繰り返すことは、非常に憐れむべきことです。暗闇の中で人生を生き、「虎」のように苦闘して自活し、実態がなく本質を欠いて生きるからです。この世に生まれ出て仏教に出会う運がない故に、生まれてきた十分なチャンスを失い、終わることのない生死の循環を生きねばなりません。

その12-ブッダの一握りの木の葉 ―ブッダの核となる教えとは

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スパワン師の原著

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しかし、間違っていません。何故なら、これは、言わば、森で迷った男が不死の甘露(アムリタ)の池を見つけたという「結果」が最初に来た男の経験だからです。もし、元々「虎」ではなかったという真理を探求する最初の人がいなかったら、ずっと末永く、私達は「虎」のように、愚かで暗闇の中にいるというブッダの説法を聞けなかったでしょう。ブッダの説法は、まず、結果を見て、続いて結果に対するアプローチをしているのです。
従って、「最初の人」がやって来て、人生の最大の目的は何かと、私達に真実を説法したことをしっかりと記憶しなければなりません。ブッダとは、人々に真実の説法にやってきた「最初の人」なのです。初転法輪の説法は、ブッダ発見したことを人々が理解させ、関わるようにさせた基本の説法の最初であり、最初の人生の地図だったのです。このことで、ブッダが教育者としての思考能力を存分に使わねばならない契機となりました。ブッダは、その時代の知性的な人物の1人と考えられます。そこで、ブッダは、最初の人生の地図を書いた後で、人々が何を欲しているのか、どのように説法を受け取りやすいのか分析しました。ブッダは、45年間、常に人生の地図を書いてきました。その期間、人々や神々に説法してきたのです。涅槃へ行くブッダの説法の地図は、道に迷った人が少なくとも歩めるように絶え間なくより改善し詳細にしたものでした。非常に詳細な人生の地図として大四念処経があります。
 ブッダの覚りを認め、ブッダに従った弟子達の修行プロセスは、涅槃に至る道程を実践することでした。不死の甘露(アムリタ)の池に行くために、森に迷ったことのある男が述べた地図に沿って歩くように、原因から結果を求めて歩みました。ブッダは、八正道に沿って歩まなければならないと言いました。それこそが、涅槃に至る説法、つまり、人生の地図だからです。
賢明な人は、ブッダが生まれてきたことが私達の人生に対しどれほど重要であるか、すぐに理解されることでしょう。もし、ブッダが説法を行う決断をした大きな慈悲がなければ、輪廻の中に彷徨う私達の人生は、さらに何十万年も暗闇の中にいたに違いありません。

その11-ブッダの一握りの木の葉 ―ブッダの核となる教えとは

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スパワン師の原著

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物事の両極端は正しくない、すなわち、苦行や必要以上に食べることは不適切であると。これは、涅槃がどの方角にあるかを前もって方角を言っているのと等しいことでした。続けて、正しい行為は中道を歩まなければならないと述べました。もちろん、歩くときに道の真ん中を歩くという意味ではありません。それは、「正しい見解(正見)を持つ」から始まり、「正しい瞑想(正定)に集中する」で終わる、8つの実践徳目である八正道を意味します。
 話題を広げてから、ブッダは、四聖諦のテーマに入っていきます。話題を狭めていくプロセスです。何故なら、その時代の人々は、それぞれ、生老病死に打ち勝ち、いかに幸せになるかのすべを知る必要があったからでした。従って、四聖諦のテーマは、その時代、人々が本当に知りたいと関心があるものでした。何故なら、ブッダは、出家僧のウパカを教訓として、人々が関心を示すことを話さないと、去ってしまうことがあることが解っていたのです。そこで、人々に興味のある事をテーマにして説法をしたのです。「「苦」があり(四聖諦の1番目)」、その「「苦」には原因がある(四聖諦の2番目)」という話題は、詳細を話しても人々の関心を呼ぶものでした。ブッダは、周辺の少し広い話題から説法することにしました。すなわち、「苦」の例として生老病死があることを話し、最終的に、欲望(煩悩)への執着について話しました。それは「苦」の詳細について話すことでした。
 「「苦」は滅することができる」という四聖諦の3番目まで来ると、ブッダは、すぐに発見した真理の話題に入っていきました。最高の真理の発見とは、人の命は宇宙のすべてに繋がっていることを意味します。ブッダは、その真理の状態とは「苦」を消しさった状態であると述べることで、自己に由来する「苦」の話題を宇宙合一の真理に重ねて説法したのです。その後、「苦」を滅する唯一の状態こそが、それ自身、最高の真理となり、さらに「「苦」を滅するまでのが方法」が、四聖諦の4番目の話となり、八正道の実践の話に繋がるのです。
四聖諦では、ブッダが「「苦」がある(四聖諦の1番目)」という結果を、「「苦」には原因がある(四聖諦の2番目)」という原因、四聖諦の3番目の「苦」は滅することができる」、四聖諦の4番めの「八正道の実践」の前に置いたことはと、明らかに見て取れます。科学では、結果の前に原因が来なければならないですから、異例のように見えます。

その10-ブッダの一握りの木の葉 ―ブッダの核となる教えとは

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スパワン師の原著

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つまり、覚りを得た者とは、すべてを知る者であり、覚醒した者であり、祝福を得た者を意味し、ブッダの真の特徴を示していました。いずれにしても、ウパカに対して話したことは、ブッダが解脱したとを初めて世に知らせる内容でした。こうする前にすでにブッダが予想したとおり、説法しても信ぜず、代わりに舌を突き出され、更に大いに笑いものになったのでした。
 この出来事は、人々に説く説法の方法を、もう一度ブッダに思い巡らせたのかもしれません。この出来事こそ、ブッダが人々に最高の教えを理解させるには、何をいかに説法すべきか、思考を巡らし始める契機となりました。ブッダの説法プランは、森から出てきた男が、他の人々も不死の甘露(アムリタ)の池に行けるように地図を書くようになったきっかけのようなものでした。つまり、ブッダの説法のすべては、人々が涅槃、あるいはブッダ自身の覚りを知る助けるになる道程の地図なのです。少し異なるのは、説法が人生の地図であることです。このよく練られた最初の説法行為は、後に初転法輪と呼ばれ、初めて仏教の教義を人々に説いた出来事になります。出家僧のウパカと別れた後、ブッダは、かっての修行仲間の五比丘に会う前に、説法についてよく考えて説くことを練り、周到に準備したに違いありません。解脱する条件を知ることは、不死の甘露(アムリタ)の池がどこにあるか知ることと同じです。他の人がそれについて知るように説くには、まず、広大な周辺について話す必要があります。それから、少しづつ、狭めていくのです。もし、スワンモック寺(プッタートとい偉大なタイの僧が瞑想修行のために開いたお寺)に行くのでしたら、まず、南の方角に行かねばなりません、スラタニー県に行き、チャイヤー郡まで行き、チャイヤーから東の道路に沿って行きますと、スワンモック寺が右手に見えますと、人に説明するようにです。あるいは、ある男が、不死の甘露(アムリタ)の池は森の東の方向です、ですから西や北や南の方向に言ってはいけません、何故なら、方角を間違うと、後で引き返したとしてもとにかく時間の無駄になりますと、人に説明するのと同じです。
従って、初転法輪の説法では、四聖諦の話題に入る前に、ブッダは、まず、次のことに注意するよう述べました。

その9-ブッダの一握りの木の葉 ―ブッダの核となる教えとは

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スパワン師の原著

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-出家僧よ、あなたの肌はみずみずしく、身体は白く明るく澄んでいる。どなたの流派に属しているのか。どなたがあなたの師なのか、どなたの名高い教えに接しているのか。

ブッダは、彼の人に求められるまま正直に、真実に即して答えました。

-私は、自ら覚った者であり、すべての欲望(煩悩)を征服した者である。自分自身を十分に知ったものであり、知って把握した者である。多くの俗世間の事柄に関わろうとしないつもりだ。私は、欲望(煩悩)を解脱し、自分自身の死生輪廻のカルマを断った。このようであるから、私の師である人を名指すことはできない。世に私のような人はおらず、私と比較するような人はおらず、阿羅漢(最高の悟りを得た人)となった。私以上の師はなく、私一人が真のブッダであり、欲望(煩悩)の炎を消した者である。私の教えを広めるためにヴァーラーナシーに赴こうとしている。不死の教えを鳴り響かせんとしている。

出家僧のウパカは、まったく尊敬の念を示さずにブッダの言葉を聞き、次のように述べました。

-先輩よ、あなたは、最終的に解脱した勝利者でないのに、実にあたかも大きな事を言っているのじゃあありませんか?

覚っているブッダは、真実を語っていると答えました。

-そうでしょうね、先輩。師なくして、自ら無上を知り得た独覚なのですね。素晴らしすぎますよ。

出家僧のウパカは、嘲る口調で述べ、ちょっと舌を出し、頭を揺らして避けるように去っていきました。おおぼらを吹くと思いながらです。
実際のところ、ブッダは、真実以上のことは何も言っていませんでした。独覚とは、師なくして自らの力で覚った者の意味です。