namtoknaam’s blog

社会的実践家の仏教説法家スパワン師の本を読み解いていきます

その8-ブッダの一握りの木の葉 ―ブッダの核となる教えとは

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そのときは、自然の道理だけがありました。つまり、そこに「在る」という、言葉に出来ない在るがままの状態に対する認識だけがあったのです。まだ、涅槃という言葉が、生じていなかったかもしれない可能性がありました。そのとき、ブッダは、一人で解脱の無上の喜びを味わっていました。何故なら、誰かにこの教えを伝えようとは思っていませんでした。ガヤー地区の菩提樹の日陰に下で覚った後、ブッダは、溢れんばかりの心の十分な自由の状態を味合うために49日過ごしました。ブッダは、後に、この期間を解脱の無上の喜びを噛みしめた期間と呼んでいます。このとき、ブッダは、瞑想に入って無上の状態が非常に繊細で微妙であるのを観察し、欲望(煩悩)に覆われた普通の人が、あるがままに見ることは、尋常の能力を超えるほど、あまりに難しいと考え、我々が全身「虎」として呪われた人であることを、他の人は信じないだろうという配慮から、教えを説かないほうがいいという考えが浮かびました。しかし、何度も考えたあとで、様々な色の花があるように、人々には様々な知性のレベルがあると思い直しました。小さい頃から目にホコリが入っておぼろにしか見えない人でも、ブッダの無数の慈悲によって開眼するようになるかもしれないと。そうして、教えを説くことにしたのです。
洞察により、ブッダの師の2人は死去してしまったこと知り、覚りを開いた菩提樹から鹿野苑に向かう途中に、かつて一緒に苦行した5人の出家修行者のことを思いつきました。ブッダは、ウパカと名乗る一人のアージーヴァカ派の出家僧を通り過ぎました。ウパカは、非常に明るく澄んだ顔つきした修行者が通り過ぎるのを見ました。その威厳を備えた様子は、あまたの修行者と異なり、静謐で品位がありました。どんな人か知りたくなり、出家僧のウパカは、戻ってその若い出家僧に尋ねたのでした。
出家僧よ、あなたの肌はみずみずしく、身体は白く明るく澄んでいる。

その7-ブッダの一握りの木の葉 ―ブッダの核となる教えとは

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スパワン師の原著

 

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しかし、人生の真の目的は何か、誰も本当に知らなかったのです。シッダールタ青年は、覚りを探求する集団に6年間、参加しました。命がほとんど危険になるまで、その時代にあった様々な修行方法を試行錯誤しました。その時代のインド社会で起こっていることは、森に入った男が森からの出口を見つけられないような状態でした。ですから、ブッダの覚りは、森に入った男が偶然、不死の甘露(アムリタ)の池に出会ったような状態、あるいは、本当のところ、この「虎」は「虎」でなく、普通の善良な人でああるという真理を発見したことでした。
ブッダの覚りとは、彼が自然の最高の真理を発見したことを意味します。宇宙の最後の境界を発見したようなものです。さらに北に行くことができない極北です。ブッダはこの状態を涅槃と呼びました。そこは、苦が完全に尽きる唯一の場所で、「虎」から人に戻れ、人生の牢獄から出られ、完全な心の自由が得られるところです。すべての人間はいつも新たに多くの問題に直面していますが、ここは問題が尽きることが直ちにわかるところです。
涅槃の状態あるいは最上の覚りとは、すでに元々人の心にある状態です。ブッダが生まれようと生まれまいが、いずれにしても、涅槃は元々あり、ずっとあり続けるものです。ただ、森の中のアムリタの池のように、以前、誰も見ていなかったし、発見したことがありませんでした。ブッダが誰も発見したことがないものに出会ったのは、素晴らしいことでした。ブッダの覚りは、他の思想家と異なる新しい思想のカテゴリーとして創ったものではないことを、知識ある人は理解すべきです。涅槃の状態に入るのは、まったく思考することと関係ありません。ブッダが思考を用いたのは、その後であり、教えを説き始めた後でした。

その6-ブッダの一握りの木の葉 ―ブッダの核となる教えとは

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スパワン師の原著

これから、タイの仏教説法家のスパワン・クリーン師の上記の仏教の本を少しずつ訳していきたいと思います。なお、翻訳の許可はスパワン師からいただいています。

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第2章 何故、原因の前に結果が来るのか


前の章では、私は、ブッダが人間に善いニュースをもたらした涅槃について、明確なイメージで理解できるように話しました。すなわち、私達は本当は「虎」ではないのに、仙人が「虎」に変えてしまったため、人生の目的が、人に戻る道を探し求めること、あるいは、人生の牢獄から出ることになったということです。この章では、目的(結果)と方法(道程)を特に取り上げ、お話しします。ブッダの覚りは、彼が覚りのプロセス(道程)を会得する前に、覚りの結果を会得したことに特徴があります。このことは、知識ある人は誰でも、仏教の本当の核心を見るために、明白に理解しなければならない重要点です。つまり、この涅槃というのは、ある男性がふいに偶然、森に入って、不死の甘露(アムリタ)の池を発見してしまい、思わず飲んで不死の命を得てしまったという風な、明確なイメージで受け取るほうがいいでしょう。男は、このアムリタの水のことを知ったことで、人々にもこの水は大きな益があると考えました。そこで、道なき道を跛行して、地図を作成し、アムリタの池に行く道を迅速に明らかにしようと探求します。森から出て、彼は、このアムリタの水のことを他の人々に話します。行きたい人々に地図を渡し、道を説きます。ブッダが覚る前は、人間の社会は暗黒に満ちていて、事の道理や人生の目的、真理とは何か、本当に苦が焼尽するとは何か、そのためにはどうしたらいいかを、誰も知りませんでした。インドのその時代に生まれたブッダは、回り道をしながらも真理を追求しました。あるときは淫欲にふけり、あるときは自分をいじめ抜き、あるときは瞑想の平安の中で考察をしたりして。

その5-ブッダの一握りの木の葉 ―ブッダの核となる教えとは

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スパワン師の原著

 

これから、タイの仏教説法家のスパワン・クリーン師の上記の仏教の本を少しずつ訳していきたいと思います。なお、翻訳の許可はスパワン師からいただいています。

 

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話を聞いて道理を理解し、北に進む入り口で私を待つ選択をしたなら、自ずから、普通の人(衆生)から覚者への道を進むことを意味しています。自分自身の考えと気分によって行動する傾向のある衆生のように人生を送ることをしなくなることを意味します。衆生の原意は、欲望(煩悩)に即して行動することです。「虎」のように動物のように人生を送ることです。自分自身、覚者になることを選択するということは、新しい人生を送る方向に変わることです。私がこの著書や別の著書、特に「人生マニュアル」、「モラル」、「人生マニュアルとブッダの真理」などで示した道に沿った考え方を、始める必要がありますし、著書で示した考え方に即して考える努力が必要です。そうすることで、あなたの人生が変わっていくのを実感し始めるでしょう。欲望(煩悩)に即して行動しなくなるのです。これこそ、人生の牢獄から出る出発点となるのです。

その4-ブッダの一握りの木の葉 ―ブッダの核となる教えとは

 

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スパワン師の原著

これから、タイの仏教説法家のスパワン・クリーン師の上記の仏教の本を少しずつ訳していきたいと思います。なお、翻訳の許可はスパワン師からいただいています。

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04

これは、いわば、ベンガル「虎」から「豹」に変わりたいだけのようだと言えます。天国で天使や梵天の神々に生まれ変わりたいというのは、監獄の左側から右側に移動したにすぎないのです。監獄の右側に移動したことは、行いの善い罪人にすぎません。番人が、褒美で騙して、ほんの少し快適で幸せにさせ、監獄に居させるのです。巨大な監獄の右側に居ても、真の自由を享受したことになりません。
涅槃に行くために、ベンガル「虎」から人に戻ること、あるいは人生の牢獄から出るということは、誤解による選択では、行けないのです。涅槃は、宗教を信じるか科学を信じるかの選択ではありません。けれども、到達すべき最終目的になります。速く知れば、速く到達し、遅く知れば、遅く到達します。知らなければ、到達できませんし、今生が無駄になります。
以上のことを聞いたら、あなたは、今後、自分は何をすべきか知りたいと思うでしょう。私は、理解しやすいように比喩を使って話しますが、今、私が十字路の真ん中に立っている大勢の人々に人生の牢獄について話しかけているとします。続けて、人生の牢獄から出たいと欲する者は、すぐに北の方向に曲がり、まず、北にまっすぐ向かう出発点で待っているよう言ったとします。私は、あなたを涅槃に到着するように案内しようとしますが、人の群れに分裂が生じます。よく聞いて道理を理解すれば、すぐに北に向かう人もいるに違いありません。聞いて道理を理解しない人は、暗闇の部屋に座っている、あるいはサングラスを掛けている人と同じです。南に行くことを選んだ人は、涅槃に行くと聞いてすごく怖がった人です。行きたくないので、これからも人生の牢獄に居ることを選択するのです。東や西に行くことを選択した人は、天国に行くために、お布施をする人です。梵天様の国に行きたいのです。もし、あなたがその道を選ぶなら、私は、ガイドとして何もできません。自分自身で探って行くべきです。私の役目は、人生の監獄を出て涅槃にいくために、北に進みたい人達を連れて行くことです。

その3-ブッダの一握りの木の葉 ―ブッダの核となる教えとは

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スパワン氏の原著

これから、タイの仏教説法家のスパワン・クリーン師の上記の仏教の本を少しずつ訳していきたいと思います。なお、翻訳の許可はスパワン師からいただいています。

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03


あるいは、真の自由に向かうために人生の牢獄から連れ出す道筋を発見したことになります。これこそ、涅槃であり、苦が尽きた状態なのです。私は、現代に相応しい言葉「清浄」を使います。涅槃よりは耳になじむ言葉になるでしょう。
ブッダの悟りは、人類の最高のニュースであると見なければなりません。なぜなら、何時の時代でも人生の監獄から私達を連れ出すために、苦の消滅を知ることは、導かれて正しくその知恵を用いるときに、不死を知ることになり、それが、苦を消滅させた結果となるのです。
ところが、問題が起こります。善き人物が、自分は魔法を解く言葉を知っていると、ベンガル「虎」にこの良き知らせを述べ、「虎」にしばらく静かにしているようにお願いし、「虎」が元の人に戻れるように、魔法を解く言葉を唱え、同時に法力を具えた杖で身体を指し示しめようとしても、ベンガル「虎」は、はっきりと、それは真理ではないと述べ、自分は元からずっとベンガル「虎」だった、別の何かに戻る必要はないと言い返すのです。このように、ブッダの教えが必要でない人もいます。ブッダの教えは必要ない、人生の成功に対し重要ではないと考えているのでしょう。お金が十分貯めれば、成功したと考えるのもいいでしょう。また、宗教よりも科学の真理に信頼する人達がいます。宗教とは、確かめられない、馬鹿なことにうつつを抜かすものと考えています。このような人々は、暗い部屋に居続けているか、サングラスをしているか、門や窓をピッタリと閉ざしているかのようです。自分の人生に知恵の光が入ってくるのを許さないのです。すごく可愛そうな人達ですが、社会の大多数がそうであり、人として生まれながら、仏教に出会わず、もう一度、運良く人として生まれ変わり仏教に出会うまで、長い間、人生の牢獄にいなけれなりません。
天国に行くためにお布施を積むことを望み、運を信じ、天国で天使やブラフマーの神々に生まれることを望む人もいます。天国に行けば、気を病むことなく幸せで、苦難に会うこともなく過ごせるだろうと。

その2-ブッダの一握りの木の葉 ―ブッダの核となる教えとは

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スパワン師による原著

これから、タイの仏教説法家のスパワン・クリーン師の上記の仏教の本を少しずつ訳していきたいと思います。なお、翻訳の許可はスパワン師からいただいています。

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すべては、真の自由に欠けているベンガル「虎」のメタファーなのです。たとえ、この「虎」がどこにもやすやすと飛翔して行くことができ、獲物を追跡し餌とし、また、他の動物が恐れているとしても(人だと大きな権力のある人物ですね)、この「虎」が、勇敢で、学識に満ち、いかなる世界もよく知っているとしても、自分がいまだ「虎」である真実から逃れることはできないのです。人生の真の自由な状態に戻ることができないでいるのです。真の自由な状態とは、寓話に即して言えば、元の人に戻るということですね。
現在、私達の状態というのは、人生の真の自由を失って、ベンガル「虎」の状態で、牢獄にいることに例えられるような苦の状態にいます。牢獄の中で生きるのは、当然、自宅にいるように幸せで快適ではありません。牢獄にいるため、人は考えすぎて苦を生じ、民族同士で戦って破壊することに至るのです。寓話は、世界の人々が人生の牢獄にいるといることを知らしめる教えです。
しかし、人は、この件で自分を助けることができません。何故なら、自分自身が魔法にかけられていることを知らないからです。どこを見まわしても、皆が大きな「虎」になっています。社会の大半の組織の人間も常態として牢獄に捕らわれていて、自分自身がベンガル「虎」であるように振る舞います。この真理を知る人こそが慈悲を持つ人なのです。慈悲を持つ人は、ベンガル「虎」でいるのは、魔法をかけられいるからだと知っており、ベンガル「虎」が、もう一度、人生の真の自由に出会うよう助けるために、探し求め、魔法を解く方法を発見したのです。
この男性こそ、シッダールタであり、その時代に彼は多くの師から真理を求めるために旅をし、自分の能力と統合することで、最終的に、魔法を解く方法を発見しました。すなわち、覚ってブッダとなったのです。ブッダが仙人の魔法を解く方法を発見したということは、ベンガル「虎」が人に戻ることを助ける道筋を発見したことになります。